小さなボタンを押して10秒。もう一度押して10秒。鉄の扉は開かず、内から主の声はない。  直射日光がTシャツ越しに背中を照りつけ、日陰に収まる顔や首にも熱風が撫で付けている。右手に提げていたビニール袋を胴の影に収め、熱をじっと堪える。この気温では内容物はすぐに溶けてしまうだろう……主から反応があるまでのささやかな抵抗を続けて10秒。蝉の声を除き、廊下は依然として静かだ。  主の名を呼ぼうとも思ったが喉が渇いていて、声を出すのが億劫だった。ポケットからスマートフォンを取り出して表示した彼のSNSは、もう1週間も更新がない。通常の彼はとても多弁で投稿頻度も高い筈だった。十数分前に彼に飛ばした自分のメンションにも、未だ返答がない。 「…ここにいるイカ?」 発声して、やはり声量が出ていないのが分かった。唾液を飲み込み、もう一度。 「ここにいるイカ」 依然、返答はない。  彼の消息が数日に渡って途絶えるのはこれで2度目だ。前回彼にそれについて尋ねたとき、「ときどきあるんだ」とひどく曖昧な返答を貰った。 「俺は“何が”あるのかを尋ねたのだが」 「何もないよ」 「…『何もない』ことが『ときどきある』と?」 「んー 難しいな」  なくなるんだ、と、迷いのある、意味を確かめるような調子で言った彼の横顔を思い出す。  ビニール袋の結露がレギンスパンツ越しに腿を濡らし、その冷たさに回想から意識を引き戻される。  彼の返信を待たずに来てしまった。沈黙を貫く鉄扉を後にし、階下の自分の部屋を目指しながら、次は質問を変えてみよう、と思った。